憲法9条に関する認識の溝を埋めるためには
皆さんご存知の通り、憲法改正の議論が進むにつれ「平和憲法を守る!戦争法反対!」みたいな意見と、「今の9条はお花畑だ!そんなのでは国防は成り立たない!」みたいな意見の対立が鮮明になってきました。
片側では「憲法によって戦争は起こらなかった」という認識があり、もう片側では「戦争が起こらなかったのはたまたま」という認識であろうと思う。
この認識の溝が埋まらない限り、両者がまともに議論することはできないのではないかと思いいろいろと考えていたのだが、その中で自分なりの結論が出たのでここに記しておきたい。
まず、結論から簡潔に述べたいと思う。
「9条によってこれまでの平和は維持されてきたが、今後はそういうわけにはいかなくなるために改正が必要」
これだと思う。
(自分を含める)憲法改正論者の人たちも、9条による一定の効果については理解をする必要があるのではないかという結論に達した次第である。
第2次世界大戦で日本が敗戦してアメリカの支配下に入り、その後独立をする際に現在の憲法ができたという認識については問題ないと思う。
その際にどういう思惑があったにせよ、日本は軍を持つことを禁じられた。
さて、その後の世界情勢について考えてみよう。
つまり、「その当時の世界情勢において戦争を行うとはどういう状態を指すのか?」ということである。
間違いなく、世界大戦後の世界はアメリカ(とソ連)を中心に回っていた。
その世界情勢において、日本が戦争を行うということはどういうことなのかを考えれば、これはアメリカからの参戦要求に従う以外に他ならない。
なぜかと言えば、当時の世界情勢において日本に戦争を仕掛ける=アメリカに戦争を仕掛けるということであり、こんなバカなことを真正面からする国はなかったと言ってよいだろう。
となると、この世界情勢においては「(アメリカをバックにつけつつ)アメリカからの参戦要求をいかに断るか」ということが戦争を避ける方法であったわけである。
そこで、「軍を持たない!」と言ってしまうことで、これがある種の言い訳としてアメリカの行う戦争に参加することなく平和な日本を続けてこれたという側面があるのではないだろうか。
つまり、世界大戦後の世界情勢においては、軍を持たずにアメリカの傘の下に入ることが戦争回避=平和を守る方法であり、これに9条は一定の効力を持っていたわけだ。
この部分を改正論者も認識するべきなのではないだろうか。
つまり、この部分を真っ向から否定しては議論にならない点を意識するべきなのである。
冒頭でも述べた通り、現在はこの世界情勢の変化というものを意識しなくてはならない。
一番大きいのはアメリカの影響力の縮小であろう。世界の警察の役目を放棄したアメリカに頼ることはできなくなった。
それが証拠に、中国は南沙諸島においてやりたい放題である。
フィリピンやベトナムは自らの領土を中国に侵略されている状態である。
このままでは中国の手が日本に及び、日本が手を出してこないことをいいことに各種諸島を実効支配するであろう未来は目に見えている。
「平和国家を侵略するなんて」などという世界の非難は中国には届かない。事実、国際司法裁判所の判決を中国は「紙切れ一枚だ」とつっぱねた。
また、北朝鮮の問題もある。アメリカが北朝鮮を抑えることができなくなってきた。
このような状況において、9条の最大の利点であった「アメリカの参戦要求をつっぱねることができる」というメリットは何の役にも立たないのは子供でも分かることだろう。
アメリカだけにおんぶにだっこではなく、アジアの国々とも協力して、「自分たちの身(土地)は自分たちで守る」ための力を手に入れるしかない。そのためにも9条は改正するべきではないだろうか。アメリカが世界の平和を守る、そんな時代は終わりを告げようとしている。早くそのことに国民は気づくべきなのではないだろうか。
憲法改正をしてこなかったこれまでが悪い
憲法改正が参議院選の争点になるみたいなのでそのことについて書いておこうと思う。
まず私の意見だが、憲法改正に賛成か反対かでいうと賛成ということになる。
というのも、今のままの憲法でこの先の未来を突き進むのは無理があるからだ。
いや、私は何も、戦争できるように憲法を改正しろと言っているのではない。
「憲法解釈」という言葉をもう使わないようにしてはどうか?
このように考えている。
これは同僚(護憲派)と憲法について話していた時に気づいたのだが、
護憲派と改憲派ではそもそも前提としている現状認識が大きく異なるのである。
たとえば「陸海空軍その他の戦力を保持しない」と、このように書いている憲法下でいったいなぜ「自衛隊」を持つことが許されるのか。
これは憲法に書いてある「戦力」が他国を攻撃するためのものだから自国を守るためにしか動けない自衛隊はゆるされるという解釈らしい。
そんな屁理屈が通るのが「憲法解釈」なのである。
そしてこれが諸悪の根源だと思っている。
この「憲法解釈」は文字通り解釈なので読む人によって違うのだ。
つまり解釈がこれだけ幅広く許されている憲法はもはや、読む人の数だけその人に都合のよいように読むことが可能である魔法の憲法なのである。
これがそもそもの間違いである。
なぜならば、人と人が特定の問題について議論するときに前提となるルールが人によって違えば、そんなもの議論にならないのは当たり前である。
何十年と、日本はこの状態がずっと続いてきたのだ。
そりゃぁ右翼と左翼で話が合うはずがない。
じゃあどうすればよいか。
そんなもの「細かいところまで全部書けばいい」じゃないか?
例えば、「陸海空軍その他の戦力は保持しない」の部分は、「他国を攻撃するための陸海空軍その他の戦力は保持しないが、自国を防衛するための自衛隊のみこれを許すものとする。自衛隊においては他国の領土で戦闘行為を行うことは許可されない」くらいに事細かく書いたものに変えればよいのだ(この文章が最善だと言っているわけではない)。
そうすれば解釈でもめることもなく、もう少しちゃんとした議論ができるのではないだろうか。
細かく書く代わりに、細かい改正や修正は常に議論されるようにすればどのように解釈するかで揉めることもないだろう。
まともな議論をする上に置いて正しい現状把握は必須だ。
それは自分の現状認識が正しいかだけでなく、議論の相手が現状をどう見ているのか、そこを理解することが必要不可欠なのである。
現在の憲法のような、解釈でどうとでもなるようなものではなく、きちんとした憲法の下で様々なことが議論されることを祈る。
そのためには現在の憲法と現状の矛盾をしっかりと見つめなおし、改正すべきところは改正するような認識が必須である。
憲法改正は悪ではない。
現状に不適なもの、時代にそぐわないもの、そういったものは積極的に修正すべきなのだ。
憲法は我々を縛るものではなく、我々一人ひとりを守るために存在するのだから。
科学者からみたSTAP問題
せっかく科学者が書いているブログなので、STAP問題についてもかくべきと思い筆をとった。
先日、皆さんご承知の通り小保方氏の手記が発表された。
中身を読む気はないのでそれについてのあれこれは別の人のブログを参照されたし。
今回は「そもそもSTAP問題はなにが問題なのか」について書いておこうと思う。
「STAP細胞はあります」
小保方氏のこの言葉はいっとき流行語として使われたこともあるので知っている人も多いだろう。
しかし、この言葉にこそ、マスコミも、世間の多くの人々も誤解している、この問題の根本的な誤解が存在する。
STAP問題の根本的な部分というのは、
「(故意かどうかにかかわらず)研究結果ではないデータをねつ造して論文として発表したこと」
である。
つまり、STAP細胞なるものが存在するかどうかは問題の争点ではないのである。
研究の世界における論文というものを簡単に説明すると、
1.著者が特定の研究誌に投稿する。
2.雑誌の編集者やレフェリーと呼ばれる専門家が内容を査読する。
3.掲載するに足る内容であればOKを出す。
4.研究誌に掲載される。
この流れを踏んで掲載されるものが論文なのである。
この過程において、基本的にねつ造が疑ったりはされない。
もちろんおかしな点や不明な点、データが足りない点などがあれば編集者やレフェリーからはツッコミが入るし、著者はそれに応えて原稿の修正を行ったりする。
しかし、提出されたデータそのものを疑ったりはしない。
これは、性善説に則るということではあるが、そうしないと仕方ないという側面もある。
要するに、いちいちひとつひとつのデータの検証などできないのである。
掲載する研究誌がいちいち検証など行っていると仕事にならないことは自明である。
では全く検証がなされないかというとそうではない。
実証を行うのは読者、すなわち他の研究者の仕事なのである。
もし怪しい論文があれば、それを論文に書かれている手法で再現してみる。
再現できなければ「この論文の結果は怪しい」ということを論文として発表するのである。すくなくとも再現性が取れていないと。
しかし、こうした実証も基本的にはなされない。
なぜか。
今回のSTAP細胞検証実験を思い出してほしい。
あれだけのことをするのに1年かかった。
世の中には日々新しい論文が提出されており、そのすべてを検証するなどというのは不毛であり、不可能である。
ここまでも述べたように、研究の世界における研究誌というのは投稿された論文を載せる媒体であって、その真偽を立証する媒体ではない。
そのため、研究誌に論文を発表する場合には、基本的にはねつ造などあってはならない。
なぜなら、ねつ造が横行しだせば研究などというのは成り立たないからである。
研究を進める際には基本的にはこれまでの研究結果を踏襲する。
これは、研究というものが、過去の研究結果を土台にしてどんどん積み上げていく作業であるからだ。
その研究結果を発表して、次の研究者の土台となるものが論文であり、その土台にねつ造されたものが混じっていた場合、その上に積みあがるすべての論文がダメになってしまう。
だからこそ、研究者たちはねつ造論文に関して強く糾弾する。
それもそのはずだ。
研究にはお金も時間もかかる。
そのため研究者は自分自身の研究に命を、人生を懸けている。
その研究人生を無駄なものにかえてしまうものがねつ造論文なのである。
「画像のとりちがえのミス」
「下書きを送ってしまった」
そういう気持ちで論文を発表すること自体、研究者からすれば「ありえない」ものであり、少なくとも同じ研究者を名乗ってほしくない。
その存在そのものが研究者にとって迷惑になる。
今回のSTAP問題はそういった問題なのである。
つまり、いくら「STAP細胞はあります」と言ったとしても、
そして仮にそれが真実だったとしても、
この「ねつ造論文を発表してしまった事実」ということそのものが一番の問題であるということを、これを読んでいる皆さんには知っておいてほしい。
小保方氏に関してはこの研究で博士を取ったようであるし、博士号が取り消されるのもそれは当然のことである。
そしてもし、どうしても研究者をやり直したいのであれば、心を入れかえてもう一度大学院に入りなおし、ゼロからやればよいのではないか。
そう思う次第である。
物事には賛成と反対の二つしかないのか
例えば原発についての話になれば、すぐにこう言ってくる人がいる
「原発再稼働賛成?反対?」
すぐにそういう話になってくる。
テレビ新聞だけでなくネットも同じ。
安保法案にしたってそう。増税にしたってそう。憲法にしたってそう。秘密保護法にしたってそう。
なんでも「あなたは賛成?反対?」
こういうインタビューでどちらが多いかの議論ばかり。
でもこれらの問題って賛成反対に綺麗にわかれるもんではないといつも思う。
そういうところをみんな理解していないのではないだろうか。
根本的には賛成であったとしても、全部が全部賛成ではないし、修正しないとダメだと思っているところなんてたくさんある。
例えば私にとっての原発再稼働問題なら、エネルギー問題(石油に頼りすぎる弊害)をどうするかであったりとか、結局のところ停止するにしても危険性があまり変わらない話だとか、テロに狙われたらどうするとか、自然災害にどう対処するのかとか。
そういうのを総合的に考えると、安全性を信頼できるくらい高めたうえでの再稼働を目指して進めてほしいなぁという風になるわけで。
これは形としては賛成派になってしまうわけですが、「安全なんやから再稼働すればええんや!はよせい!」という意見とは大きく違うと思う。
そういったことを考慮せずに賛成反対の極論しか戦わせないから「議論」は成り立たないのではないだろうか。
確かにその事柄に詳しくない人からすれば、賛成か反対かの二択にすればいいだけだし、細かい点まで知らなくても自分の意見を同じように言えるという点ではいいのかもしれない。
しかし、少しでもダメなところがあれば反対だ撤回だ。
そういう議論では中身のあるものは生まれないだろうし、レッテル張りの言葉の問題や印象操作で賛成反対は大きく変わるだろう。
でも、根本的に大事なのは、その起きている問題に対してどう取り組むのかということではないだろうか。
ダメなところがあるなら、どう修正すればよいのかという意見まで出すとか、総合的に判断してどちらがどの程度のメリットデメリットなのかとか、別のやり方を出すとか。
そういったことをじっくり煮詰めるためにも、賛成反対というレベルの低い議論ではなく、もっとその中身についての議論をしてほしいと切に願う。
そしてこれは決して国会の中だけではなく、国民一人ひとりが意識すべきことであると思う。
安保法案問題は憲法違反かどうかが一番の争点なのはおかしい
今更ですが、これは避けては通れないと思ったので書きます。安保法案。
戦争法案とかいう人もいますね。
この問題に関して、個人的に根本的に一番おかしいと思うことがあります。
安保法案に反対する人が一番に言う「憲法違反だ!!」という言葉。
私はこれに非常に違和感があるのです。
なぜなら、憲法違反であることは大した問題ではないからです。
仮に憲法違反であったとしても、国民を守るために必要な法案であれば、憲法を変えようという議論になるのではないでしょうか。
もしくは、少なくとも憲法に反しない範囲でどういう法案にしようかという議論になるはずだと思うのです。
「法案の根本的な部分が憲法違反なのだから議論の余地はない」そういう答えもあるでしょう。
しかし、ここで大事なことはそういうことではありません。
法案が提出されたということは、現状になにかしら問題が起きているということです。
ではその法案をまっこうから否定するのであれば、その問題にどう対応するのでしょか。ほったらかしでよいのでしょうか。
そんなはずはありません。
なんらかの別の方法でその問題に対しては解決をしないといけないわけです。
そういう議論もせず、「憲法違反だから議論に値しない!」と頭ごなしの否定をするのはおかしな話です。
だからこそ、「憲法違反かどうかはどうでもいい」のです。
「憲法軽視だ」と怒られるかもしれませんが、そういう意味ではないのです。
憲法は一種のルールですが、そのルールは何のためにあるのかということを今一度考えてみませんか。
憲法が何のためにあるか。
憲法を変えないという美徳を守るために存在しているのでしょうか?
それは違います。
国民を守るために存在するのが憲法です。
だからルールが現状に即していなければ、それは改正されてしかるべきですし、これは法律も憲法も同じことです。
そのために改正する際のルールが決まっているのです。
つまり、国会において”まず”議論されるべきは「憲法に違反してるかどうか」や「解釈改憲がいいことか」ということではなく、「この法案が必要かどうか」「どのような内容にするのか」なのではないかということです。
中国の脅威や中東情勢の悪化、テロとの戦い、アメリカの影響力の減少など、日本を取り巻く状況が大きく変わっていることは明白です。
そうなれば自国防衛の体制を見直す必要があることは自明の理でしょう。
ではどう体制を変えていくのか。
そういった議論をする前に、大昔の憲法を思考停止で守り続け変化を拒むことのなんと愚かなことか。
つまり、現状の危機と未来の危機に対してどのように対処するのがよいのかといった議論を避けるのは完全に間違っているということです。
つまるところ、憲法違反を第一の問題としてとりあげる多くの反対論者に私は幻滅しています。
これは賛成反対関係なく、すべての人が大前提としてもつべき常識ではないでしょうか。
どうか少しでもまともな思考回路を持った人間がこの世に増えることを祈ってやまないです。
このブログについていろいろと。
・このブログについて
社会問題についていろいろと思うことを科学者の自分も書いてみたいと思ったので作ってみました。
できるかぎり客観的な目線で、偏ることなく物事について両側から分析していこうと思っています。
テーマは政治が多いと思いますがそれ以外も書くと思います。
・著者について
科学者やってます。専門は生物系です。