科学者からみたSTAP問題
せっかく科学者が書いているブログなので、STAP問題についてもかくべきと思い筆をとった。
先日、皆さんご承知の通り小保方氏の手記が発表された。
中身を読む気はないのでそれについてのあれこれは別の人のブログを参照されたし。
今回は「そもそもSTAP問題はなにが問題なのか」について書いておこうと思う。
「STAP細胞はあります」
小保方氏のこの言葉はいっとき流行語として使われたこともあるので知っている人も多いだろう。
しかし、この言葉にこそ、マスコミも、世間の多くの人々も誤解している、この問題の根本的な誤解が存在する。
STAP問題の根本的な部分というのは、
「(故意かどうかにかかわらず)研究結果ではないデータをねつ造して論文として発表したこと」
である。
つまり、STAP細胞なるものが存在するかどうかは問題の争点ではないのである。
研究の世界における論文というものを簡単に説明すると、
1.著者が特定の研究誌に投稿する。
2.雑誌の編集者やレフェリーと呼ばれる専門家が内容を査読する。
3.掲載するに足る内容であればOKを出す。
4.研究誌に掲載される。
この流れを踏んで掲載されるものが論文なのである。
この過程において、基本的にねつ造が疑ったりはされない。
もちろんおかしな点や不明な点、データが足りない点などがあれば編集者やレフェリーからはツッコミが入るし、著者はそれに応えて原稿の修正を行ったりする。
しかし、提出されたデータそのものを疑ったりはしない。
これは、性善説に則るということではあるが、そうしないと仕方ないという側面もある。
要するに、いちいちひとつひとつのデータの検証などできないのである。
掲載する研究誌がいちいち検証など行っていると仕事にならないことは自明である。
では全く検証がなされないかというとそうではない。
実証を行うのは読者、すなわち他の研究者の仕事なのである。
もし怪しい論文があれば、それを論文に書かれている手法で再現してみる。
再現できなければ「この論文の結果は怪しい」ということを論文として発表するのである。すくなくとも再現性が取れていないと。
しかし、こうした実証も基本的にはなされない。
なぜか。
今回のSTAP細胞検証実験を思い出してほしい。
あれだけのことをするのに1年かかった。
世の中には日々新しい論文が提出されており、そのすべてを検証するなどというのは不毛であり、不可能である。
ここまでも述べたように、研究の世界における研究誌というのは投稿された論文を載せる媒体であって、その真偽を立証する媒体ではない。
そのため、研究誌に論文を発表する場合には、基本的にはねつ造などあってはならない。
なぜなら、ねつ造が横行しだせば研究などというのは成り立たないからである。
研究を進める際には基本的にはこれまでの研究結果を踏襲する。
これは、研究というものが、過去の研究結果を土台にしてどんどん積み上げていく作業であるからだ。
その研究結果を発表して、次の研究者の土台となるものが論文であり、その土台にねつ造されたものが混じっていた場合、その上に積みあがるすべての論文がダメになってしまう。
だからこそ、研究者たちはねつ造論文に関して強く糾弾する。
それもそのはずだ。
研究にはお金も時間もかかる。
そのため研究者は自分自身の研究に命を、人生を懸けている。
その研究人生を無駄なものにかえてしまうものがねつ造論文なのである。
「画像のとりちがえのミス」
「下書きを送ってしまった」
そういう気持ちで論文を発表すること自体、研究者からすれば「ありえない」ものであり、少なくとも同じ研究者を名乗ってほしくない。
その存在そのものが研究者にとって迷惑になる。
今回のSTAP問題はそういった問題なのである。
つまり、いくら「STAP細胞はあります」と言ったとしても、
そして仮にそれが真実だったとしても、
この「ねつ造論文を発表してしまった事実」ということそのものが一番の問題であるということを、これを読んでいる皆さんには知っておいてほしい。
小保方氏に関してはこの研究で博士を取ったようであるし、博士号が取り消されるのもそれは当然のことである。
そしてもし、どうしても研究者をやり直したいのであれば、心を入れかえてもう一度大学院に入りなおし、ゼロからやればよいのではないか。
そう思う次第である。